明治時代の彫刻芸術鑑賞
2017/08/24
明治
彫刻

日本には、古来より仏像の制作を生業とする仏師、根付・印寵・煙草入れなどを制作する根付師、人形を制作する人形師、寺社仏閣の建築・補修を行う宮大工など、様々な彫刻職人(彫刻師)が存在した。

彫刻が近代の美術教育に取り入れられるようになったのは、明治9年(1876)11月に開校した工部美術学校からで、明治政府は明治5年(1872) 全イタリア美術展で最高賞を受賞したヴィンチェンツォ・ラグーザ (Vincenzo Ragusa 1841-1927)を彫塑の教師として招聴した。そして、彫塑は日本の新たな美術分野となり、ラグーザは近代日本彫塑の啓蒙的役割 を果たしていった。その後、明治20年(1887)に設立し、明治22年(1889) に開校した東京美術学校で、竹内久一・高村光雲・石川光明らの教授陣によって彫刻技術は継承されていった。 日本の牙彫は、古くは奈良時代(708-781)の正倉院御物の中に牙笏や櫛 ・横笛・尺八などの器物が確認されたこと、そして撥鏤の技法(染色した表面を彫り上げる)によって、尺や撥などの実用的な道具が作られたのが その始まりである。

しかし、その後の数百年間はあまり注目を浴びることがなかったが、鎌倉時代(1182-1333)に行われた日明貿易で象牙が日本へ輸入されたことによって、徐々に象牙製品は茶道(茶杓・茶入れの牙蓋)や文房具(筆・筆刀)、絵画(掛け軸の軸先)など幅広く使用されるようになった。特に明治以降になると、西洋諸国が日本や中国を題材とした彫刻に大きな関心を持ち始めたこと、さらに日本の安価な賃金で制作された作品が、長い歴史を持った高価なヨーロッパの牙彫作品に引けをとらない完成度であったことから、西洋の市場で日本の牙彫作品の需要は急速に高まっていった。 明治10年(1877)に開催された第一回内勧業博覧会や明治20年代に始まった東京彫工会の競技会、明治40年(1907)東京美術学校彫刻科に設置された牙彫部などは、そうした象牙ブームを盛り上げる主要な原動力となった。


貓置物

作者:善拙



鵝瓢置物

作者不詳



天然竹瞌睡羅漢

作者:加納鐵哉(箱書)



竹夜鷺置物

作者不詳


染象牙茄子置物

作者:櫻井宗齋


花剪仕女置物

作者不詳


對鴨置物

作者不詳


布袋與童子置物

作者不詳


祖孫情深置物

作者:秀江


鵪鶉置物

作者:丸喜


群魔大戰小物入

作者不詳


雛置物

作者:柳哉


賣蛋小販置物

作者:宗孝


染象牙彫鮑魚置物

作者不詳