それらの技術は江戸文化が爛熟した、文化・文政頃から明治維新にかけてがピークで、多くの優れた金工が輩出して、大名や富豪の庇護を受け、華やかな名作を世に送り出した。なかでも京都出身の後藤一乗(一七九一~一八七 六)と加納夏雄(一八二八~一八九八)が名高く、両者とも多くの門弟を育成し、彼らが日本の近代美術界に与えた影響は、計り知れないものがある。
夏雄が円熟期を迎えた四十一歳の時に明治維新が起き、武士階級は没落した。それに追い打ちをかけるように、明治九年に刀の帯用を禁じた廃刀令が出された為、刀装具を作る機会は非常に少なくなってしまった。
明治二年に明治政府は夏雄に新貨幣の原型製作を命じ、 夏雄は大阪造幣寮で明治十年まで、金・銀・銅貨の極印彫刻に従事した。この貨幣製造に外国人が招かれていたが、 彼らは夏雄の彫技に舌を巻いたと言う。
廃刀令により金工達は刀装具に腕を活かせなくなった が、その技術を花瓶や煙草入れの金具・懐中時計・帯留など、生活に密着した工芸品に活用した。夏雄は彫金の第一 人者として、その指導的立場にたち、金工たちが多くの優 れた工芸品を製作した。それらは十九世紀に欧米で盛んに開かれた、万国博覧会に出品され大好評を得て、ジャポニズムを生み出す遠因となると共に、明治初頭、近代産業の確立していなかった日本の殖産に大いに貢献し、外貨獲得の重要な役割を担っていた。
ニューヨークに本拠を構えている世界有数の宝飾商である、ティファニーの二代目で、ティファニー発展の礎を築いたルイス・C・ティファニー(一八四八~一九三三)は、 日本の刀装具の大コレクターであった。ティファニーは自宅の書斎の暖炉等の壁へおびただしい数の鐔を並べ、イン テリアとして鑑賞していた「写真ー」。 又、ティファニー創立当時のチーフデザイナー、エドワ ード・C・モアー(一八二七~一八九一)の未亡人は、三百点をこす彼の刀装具コレクションを、メトロポリタン美術館へ寄贈している。それらは、モアーがティファニー社の為に製作した貴金属・金工品の、重要な参考資料であった事が、彼のデザインした作品からも伺い知れる。
両者が収集した鐔の中には現在「浜物」と呼ばれている、 実用には使えないほど大きく、奇抜なデザインで精巧な象嵌を施した鎮があり、「浜物鐔」の用途の一端を知る事が できる。
もしティファニーとモアーが日本の刀装具に出会わなかったならば、今日のようなティファニー社は無かったかも 知れない。
明治ニ十二年、上野に東京美術学校が開校され、夏雄は彫金科の教授に任命された。また翌年に明治天皇が工芸家や画家の制作を奨励する為に、帝室技芸員の制度を設け、夏雄は第一回の技芸員に選任されている。彼はこの時期に、海野勝珉・香川勝広塚田秀鏡など、近代彫金界を背負って立った多くの優れた人材を育成した。夏雄は刀装具彫金の技術を、彫金工芸へと用いて、近代彫金工芸の方向付けを果たす役割を担ったのである。
幕末から明治の金工作品・工芸品を系統的に鑑賞出来る所は、世界中で清水三年坂美術館のみである。是非ご一 覧になられ、第二次世界大戦で焦土と化した日本が、かく も見事に繁栄を取り戻したのは、営々と伝えられてきた、 手わざの厚い蓄積があったからこそ、可能になった事をお知り戴ければ、ご同慶の至りである。